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理屈っぽいです

本を読まずに、本を読む 書評「『罪と罰』を読まない」

本を読まずに、本を読む。

そんな不思議なコンセプトの本を発見した。

 

文春文庫から出ている「『罪と罰』を読まない」だ。

翻訳家の岸本佐知子さん、作家の三浦しをんさん、執筆・デザインなどを行う吉田篤弘さん・吉田浩美さんの4人が、ドストエフスキーの古典『罪と罰』について語り合う座談会をまとめたもの。タイトル通り、4人は罪と罰は未読で、周辺情報や小説の断片などから内容をあれこれ推理していく。

 

これがとても面白かった。

その推理の鋭さや想像力にも驚かされたが、本書を通して自分の「本を読む」という行為自体がアップデートされたからだ。

 

「読む」という行為は、本を開く前から始まっているし、本を読み終えた後にもできる。これが分かれば、積ん読という概念からも解放されて楽になる。読書は本来、とても自由で楽しい行為なのだ。それを思い出させてくれる本だった。

 

タイトルや表紙から、どんな内容なのかを想像する。著者は誰か、著者の出身地・出身国はどこで、どんな時代に書かれたものか。その時代・国の政治、経済、文化はーーと考え出すと、既に妄想で物語が作れる。

 

それがプロの翻訳家や小説家なので、考察も鋭い。もちろん間違った方向で推理が進むこともあるが、正解か否かよりも、限られた情報から想像力を働かせて推理していく様が面白い。

 

本書の未読座談会は、冒頭と結末の一ページのみを訳した岸本さんの「これ、最初と最初を読んだだけでも面白くて、主人公が超ニート野郎なんですよ。すごく貧乏で、現代に通じる感じの男なの」という会話から始まる。そこから、「舞台はどこなんだろう」「主人公の年齢はいくつで、どんな外見なんだろう」「一人称の小説なのか、それとも三人称なのか」「著者が生きた時代はいつで、作品は同時代のことが書かれたのか否か」といった具合に、解消すべき疑問が参加者から次々に上がってくる。

 

小説を読むときは、つい登場人物たちや世界観、ストーリーなどに没頭しがちだが、著者や作品が書かれた時代背景まで想像を巡らせると、また違った楽しみ方ができる。「シャーロック・ホームズ」シリーズなどの翻訳で知られる深町眞理子さんは、エッセイをまとめた自著「翻訳者の仕事部屋」の中で、翻訳に必要なのは感性と想像力だと言っている。普通の人なら未読座談会という企画はそもそも成立しないと思うが、本を読んだり書いたりすることを仕事にしている人たちの、本を読まずに読む行為の深さや広さは、一冊の本として十分に成立する面白さだった。

 

本書の後半には読後座談会も収録されている。同じ内容の本なのに、こちらも各参加者の解釈がそれぞれ違っていて興味深い内容に仕上がっている。

 

特に三浦さんは主人公やキャラなどに容赦ないツッコミを入れ、全体的に場を盛り上げていた。そんな三浦さんが、「読む」という行為について、こんなことを書いていた。

 

読んでいなくても「読む」ははじまっているし、読み終えても「読む」はつづいている(略)気になって気になってどうしようもなくなったときに、満を持してページを開けばいいのではないでしょうか。本は、待ってくれます。だから私は本が好きなのだと、改めて感じました。

 

三浦さんのこの言葉に救われた気持ちになった。私も本を読むことは好きだが、時々「早く積んでる本を読まないと」と焦ってしまうことがある。でも、何も本を開くことだけが「読む」じゃないから、焦らなくていいのだ。「読む」はそれだけ懐の深い行為なのだから。

 

読み終えてから「読む」のは、何も本に限らないだろう。映画でもアニメでも、良い作品を観た時は、翌日ぼんやりとその作品の登場人物などに思いを巡らせたりする。それもやっぱり「読む」だ。最近では「この世界の片隅に」がそんな作品の一つだ。観る度に発見があり、観る度に感動するシーンが違う。公式ファンブックなどの関連書籍を読むと、スタッフや識者がまた違う「読む」を示してくれる。

 

漫画家の高橋留美子先生のお気に入りのシーンは、「段々畑で晴美がすずに軍艦の名前を教えているシーン」だという。「この二人の会話は、常に美しい響き。年齢差や遠慮を越えた、昭和の礼節を感じます」とも言っている。そこがベストシーンなのだという指摘にハッとさせられ、そのシーンを思い出すと、何だかじんわりする。そういう一連の行為も、やっぱり「読む」なのだと思う。何度でも読める作品は貴重な存在だ。

 

『罪と罰』を読まない (文春文庫)

『罪と罰』を読まない (文春文庫)