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【書評】押井守著『コミュニケーションは、要らない』 

書評 漫画

各所で面白いという感想を見かけたのでようやく読んでみたが、まぁこれが面白い。著者の中で考えや意思がはっきりしているためか、原発や政治など様々な分野についてガンガン書き進められている様はまさに猪突猛進といったところか。そのため、時々意味が取りにくい表現もあったが、何度も読み返すとようやく意味がわかってくる。また日を置いて読みたくなるような内容だった。

私のような人間には耳の痛い話も多かったが、随所に引っかかるポイントがあり、薄い本だがじっくりと時間をかけて読んだ。「私のような人間」というのは、ネットが好きで割と文章を書くことも好きな人間のことだ。本書の帯には「つぶやけばつぶやくほど、人はバカになる。」というキャッチーな一文が書かれている。要はネットでまともな議論などはできないし、「ネットでああだこうだ言ってるやつら全員バカ(意訳)」と言っているのだ。斜め上から目線のドヤ顔ツイートを連発してしまう私などは愚の骨頂なのだ。具体的に押井守がどのような言葉を用いて自身の考えを語っているのかを、順次見ていきたい。ちなみに、私にとっての押井守は「攻殻」であり「スカイ・クロラ」であり、どちらも好きな映像作品であることをあらかじめ述べておく。

 

  • (日本人がしている)コミュニケーションは、要らない

著者は、コミュニケーションは2種類あるという。

(1).現状を維持するためのコミュニケーション

(2).異質なものとつきあうためのコミュニケーション

だ。タイトルで「要らない」と言っているコミュニケーションは、(1)のことだ。著者は、コミュニケーションを取ることは必要であると断言できる、とまで言っているが、どうやら必要なのは(2)であり、(1)は「要らない」ようだ。

(1)のコミュニケーションとは、日本人的な「おつきあい」であり、表面的なものであり、「いかに問題を起こさないか」であり、ようするに「馴れ合い」のことだ。著者に言わせると、コミュニケーションとは本来(2)であり、(1)なんぞはコミュニケーションでもなんでもねぇ、といったところか。また、著者に言わせるとそもそも日本には言語空間というものが保証されておらず、みんな論理的に物事を考えることができないだの何だのととにかく日本人の文章力や論理的思考能力が年々低下していることを嘆きまくっている。

その指摘や論理の展開は至極まっとうなものなのだが、本書を読み進めているとどこか猪瀬直樹氏の『言葉の力』(本ブログでも感想を書いた)に通じるものがあるように思った。というより、一部の内容がかなり酷似している。日本の政治家・官僚が駆使する人間味の感じない言葉を「霞が関文学」と表現した猪瀬氏同様、押井氏も政治家・官僚・軍事関連の言葉の力の低下についてかなりの頁を割いている。文章力や言語能力への考え方というより、日本や日本人というものに対する思想が似ているのではないかと思う。猪瀬氏の本がタネ本になっているのかは不明だが、物語を創ることを生業としている(していた)二人の思想が似ていることは面白い。

 

  • ネットでの議論は成立しない(から止めとけ)

本書において興味深い議論のうちの一つで、ネットやSNSについて触れている部分がある。前項の延長になるが、ネットでは(2)のようなコミュニケーションを行うことは期待できないし、あってもせいぜい(1)だ、というのだ(そして何度も繰り返すが、(1)はコミュニケーションではないのだ。)

ネットがコミュニケーションに向いていないことの根拠も示されている。それは、ネットにおいてはコミュニケーションの主体がいきなり「個人レベルから始まってしまう」ことだ。そこでは自分の出身、所属などのバックグラウンドは存在しないものとされる。会社、地域、家族などの共通言語を共にする共同体が各々に存在し、その共同体間を行き来してコミットすることこそがコミュニケーションだというのだ。ネットの大海原に放り出された個人なんてただのひきこもりだバカ野郎、というわけだ。コミュニケーションというんなら、異質な他者にコミットして新しい価値観を生み出そうとする努力をしなければいけないらしい。それをしようとしない日本には、コミュニケーションの内実はないというのだ。そこで何を言おうが机上の空論にしかならないし、言葉に対する責任なんぞはもちろん介在していない(と著者は思っている)。

 

そして、この一文である。

「僕は携帯電話やPCによるインターネットとはコミュニケーションツールなどではなく、世界への窓口を限定することに成功したツールだと思っている。」

 

中身のないネット礼賛の風潮について押井氏はほかの頁でも繰り返し批判を続ける。だが、ネットは万能でネットさえあれば革命も起きちゃうし、ネットサイコー!みたいな人は未だにいるのだろうか。それを食い物にしている人はまだまだいるように思うが(時々相互フォロー目的でフォローしてくるやたら長いカタカナの肩書を持っているような人たちだ)、実際どうなのだろう。

 

  • わかりやすさ至上主義の時代 教養ブームとまとめサイト

本書では、『超訳 ニーチェの言葉』がかなり売れているらしい、ということが導入となっていたが、確かに最近は古典の入門書や「漫画で読む○○」など、教養ブームとでも言えるような不思議なトレンドがあるように感じる。ライフハック的なビジネス本が売れるのはまだわかる。忙しい中で実利を最大化しようと試みるのは至極まっとうな考えだと思うからだ。だが、世の中にどれだけニーチェの言葉を必要としている人がいるのだろうか。古典というのは、必要に迫られた人がまさにその時に読むものであって、「とりあえず教養としてお手軽に摂取しておくか」というスナック感覚でかじるものではないはずだ。そもそも、それは教養とは言わない。

 

「誰もが知的なものに触れたいという欲求は持っていて、どこかに教養の欠落を感じてもいる。けれども、それを獲得するために多大な労力を費やしたくない。簡単にお手軽に、誰でもわかる方法で『情報としての知識』を獲得したいのだ。」

 

という文が端的にそれを表している。

本来、教養や知の体系を獲得するためには多大な(時間・労力等の)コストをかける必要があるが、そんな面倒なことをしようとする人は今はほとんどいないのだ。私の場合はかつて、大澤真幸という学者がいるらしい、見田宗介という(ry、鶴見俊輔という(ryという感じで、1冊の本や1人の著者に出会った時、その知の体系を知るために遡るという経験をした。それは時間も労力もかかることだが、私にとって彼らの著書を読んでその知の体系を理解すること自体が意味を持っていたのだ。だが、今の教養ブームというのは、つまりその言葉や知の体系を必要としない人たちが文脈や時代背景など全てを無視した形で、切り取られた記号としての言葉のみを弄んで独自に解釈して悦に入っている状態なのではないか。

 

そして、「何でもいいから、とりあえずわかりやすくよろしく」というこの時代の需要の受け皿となっているのが「まとめサイト」なのではないかと思っている。教養ブームとまとめサイトには似たような背景がある。「難しいことをわかりやすく」と、「真実(本意)はどうでもいいから、私の知りたい言葉(ネタ)をくれ」という2つの面だ。この2つは表裏一体であり、とどのつまり、「真実(事実)どうか」はどうでもいいのだ。自分を満たしてくれる言葉、話のネタになる話題に出会えればそれでOKというわけだ。まとめサイトで誤報記事が掲載されてもほとんどの人は気にしないし、訂正記事が流れてもそれがよりセンセーショナルで心くすぐるものでなければ相手にもされない。本書においては、「ネットVSマスコミ 本当のことを言っているのはどっちだ」論争が例に出されているが、そもそもこの構図自体が成り立たない。どちらも本当のことを言う場合もあるし、嘘を言うこともある。結局その割合の問題なので、あとは個人個人が「語られている言葉の内容」を検証していくしかない。誰もが検証する姿勢を持てれば理想だが、それを強要するつもりもないし、推進しようとも思わない。だが、この「わかりやすさが天下を取っている時代」がいつまで続くのかには興味がある。

 

  • あかほり的なるものの全否定?主人公が未熟な故に起こるドラマはドラマじゃない

最後に、個人的に気になった箇所に触れたい。本書にはあかほりさとるの「あ」の字も出てこないが、少年向けラブコメの代表者として登場してもらった。ご存じの通り、押井守は『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を映画化している。そんな彼は、高橋留美子を「女性原理の権化みたいな漫画家」と評したのだ。つまり、女性は特定の誰かの配偶者となってしまった時点で誰かの従属物になってしまうので、彼女の作品に登場する女性は絶えず判断を保留するのだと。『めぞん一刻』において、五代が響子さんを押し倒したり、早々と「結婚してくれ」と言ってしまえば、それで物語は終わってしまうという意味のようだ。そして、次のように続ける。

 

「いつも言うのだけど、主人公が優柔不断であるとか、根拠を持たないがゆえに起こるドラマはドラマではない。そして、日本にアニメや漫画や小説の多くはこれに当てはまる。すべての主人公が碇シンジくんであり、アムロ・レイくんであり、彼らには一様に根拠がなく動きもない。(略)未熟がゆえに生起するドラマはドラマとは呼ばない。ドラマとは『価値観の相克』のことだ。」

 

とりあえず、少年向け漫画(特にラブコメ)は全否定されてしまったように思える。あかほり作品もその諸悪の根源のようなものにされてしまいそうだ。この前提に乗っかれば、恋愛モノに関して言うと、青年漫画や少女漫画のほうがドラマがあると言えるかもしれない。「1対1の恋愛」という大人の倫理観が介在しているからだ。あかほり氏も青年誌での連載の際に、最後は必ず1人のメインヒロインと結ばれなければならいことを担当編集に固く注意されたと言っていた。読者は大人なので、サブヒロインに逃げることも許されず、ハーレムエンドも許されないというわけだ。

そういう意味では、少女漫画は大人の倫理観が伝統芸の如く盛り込まれている。相思相愛から物語が始まることも少なくないし、二人の恋は序盤で成就されるパターンが少なくない。その代わり、その後ライバルが登場したり、すれ違いが起きたり、進路で悩んだり、三角関係になったりと、障害が続々と立ちはだかってくる。現在放送されている『好きっていいなよ。』も、両想いになってから順調に谷底に向かっている。私の好きな作品である不朽の名作『ふしぎ遊戯』にいたっては、国を超えて時空を超えて、とにかく障害のオンパレードだ。しかも主人公の親友は自身がNTR属性だと勘違いするという泥沼っぷりだ。しかし、少女漫画のヒロインが優柔不断だったり、ハーレム状態に置かれたりすると、途端にビッチ扱いされてしまう気がするのは何なのだろう。

 

  • 「判断を保留すること」と「まっとうな価値観を持つこと」

おわりに、押井守の2つのアドバイスで締めたい(2つだけではないけれど)。情報に出会った時にひとまず判断を保留すること、つまり情報を鵜呑みにせずに疑ってみる姿勢が必要だということだ。そして、2つ目が「まっとうな価値観を持つこと」。これは、私自身も戒めとなる言葉だ。私はよく「何を言っているか」ではなくて「誰が言っているか」で物事を判断してしまうことがある。それは正しくないことはわかっているのだが、狼少年がたまに事実を述べても信じることはやはり難しいのだ。本来なら相手が狼少年だろうが一つひとつ言っていることを検証すべきなのだろうけれど、それは面倒だし時間もかかる。だが、「まっとうな価値観を持つ」とは、自分のものさしを持った上で、他人の言ったことを自分の中で咀嚼して飲みこむ作業だ。

 

私は以前とある飲み会において、「目標となる人を見つけたい」と言ったら、「それは違う」と言われた(もっとやんわりとした言い方だったが)。つまり、「ある人のある部分を参考にする」程度ならいいけれど、「その人全般を信頼する」ことは危険であるし、有意義ではないということだ。全くその通りだと思うし、それが「まっとうな価値観を持つ」ということだと思った。Twitterなどを見ていると、どうしても「人」単位で情報を見てしまいがちだが、どんなに慎重で信頼のある人でも間違えることはある。逆に、普段嘘ばかり言っている人でも、たまにまともなことを言う時がある。そこに耳を傾け、自身のものさしで物事を判断する努力はこれからも続けなければならないだろうなと思っている。

 

コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)

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