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【書評】『あかほりさとる全書』を読んで、あかほり作品やアニメ業界について考える。

まず、子供の頃にあかほり作品にどっぷり浸かった私にとって、この本で語られているインタビュー内容(あかほり氏の周囲の人間のことである)は、少しショックを伴った。マイナスの意味というわけでもなく、単に軽く驚きを覚えたのと、私自身があかほり作品に対して抱いていた何となくの違和感に対しての回答を得られたように思ったからだ。本エントリでは、この驚きや疑問の正体が何だったのかを説明したいと思う。また、今のラノベ業界、アニメ業界についてあかほり氏が語っている部分が興味深かったので、そこについても言及したい。「金にならない文章は書くな」「ライターはブログのようなものをやるな」ということを弟子に徹底して教えていた氏からすると、このように何の金にもならない文章を書いている私の行為は愚の骨頂に思えるかもしれない。それでも、今回は「あかほり作品が好きな自分」についてのある種の自意識が発生してしまったため、そのことについて書かずにはいられないのだ。

 

本書のサブタイトルに「”外道”が歩んだメディアミックスの25年」とあるように、あかほりさとるは”外道”キャラとして広く知られた存在であった。当時裏方的存在とされていた脚本家、原作者として、自身の名前を前面に押し出したプロモーション活動をしていたあかほり氏であるが、そんな彼の近しい人間たちに、彼の功罪などについてざっくばらんに話を聞いてまとめたものが本書というわけだ。このような本は大抵褒めちぎった内容になりがちだが、予想以上に辛辣なものが多かったので、逆に新鮮だった。ちなみに本書はあかほり氏自身へのインタビューも掲載されているが、周囲の人間の証言によって彼自身の発言が裏付けされ、氏の人物像が立体的に浮かび上がるという構成になっている(と感じた)。つまり、氏自身の自己認識と、他者からみた「あかほりさとる」の一致する部分やズレなどを楽しみながら読むという、答え合わせ本のような構成なのだ(答え合わせという意味では、原作の存在するアニメ作品の視聴態度と同じかもしれない)。

 

私は『セイバーJ』ど真ん中世代にあたり、それこそビデオ屋の店員に「これ、もう○回借りてますけど、よろしいですか?」と何度も聞かれるほど、VHSで『セイバーJ』シリーズを視聴していた。子供にとって、テレビ東京夕方6時台のアニメの影響力は凄まじいものだったと思う(地方によっては視聴できる)。本書に何らかの形で登場したものだけでも、『BLUE SEED』、『セイバーJ』シリーズ、『魔術師オーフェン(TBS)』、『六門天外モンコレナイトあかほり原作)』、『新・天地無用!』、『超魔神英雄伝ワタルなどがある。また、『ふしぎ遊戯』などの少女漫画や、『レッツ&ゴー』、『遊戯王』など関連グッズが大きなブームを巻き起こしたものもある。6時半まで枠を延ばすと、『スレイヤーズ』シリーズや『ゴクドーくん漫遊記』など、お馴染みのラノベ作品も登場する(ちなみに私は『スレイヤーズ』は朝の番組というイメージが強い)。

私は『セイバーJ』シリーズが本当に好きだし、これまで視聴してきた数々のアニメ作品の中でも指折り数えるものだと思っている。だが、本書を読んで自意識モードが発動してしまった。なぜか。

 

  • あかほり作品ファン=浅い人間」というジレンマ

あかほり作品の核は、いわゆる「ハーレム」である(一部を除く)。見ていて安心できるし、何より気持ちいい。私もラブコメは昔から好きで、『きまぐれ★オレンジロード』に始まり、『らんま1/2』、『I’’s』、『まもって守護月天』、『天地無用』、『いちご100%』、『ラブひな』など、とりあえず主人公がモテまくる作品は読んでしまうのだ。本書における関係者の言葉を借りると、あかほり作品の特徴は次のようなものだ。

 

関島眞頼(脚本家:『ラムネ&40』『天地無用』『魔術師オーフェン』『セイバーJ』ほか)

「鬱展開のドロドロした感情ドラマを拒否することが、『浅い』『甘い』と思われてしまうのかもしれませんね。」

 

川崎ヒロユキ(脚本家/小説家:『新機動世紀ガンダムX』『サイレントメビウス』ほか)

あかほりのエロは、あっけらかんとしているところがいいですよね。深く考えなくていいというか。(略)さらっと視覚に訴えるだけだから。」

 

會川昇(脚本家:『爆れつハンター』『機動戦艦なでしこ』『鋼の錬金術師』ほか戦隊・特撮。)

「要はなにをやっても主人公の男の子が幸せで気持ちいいこと。あるいは、その主人公は大変かもしれないけど、観ている男の子は幸せというものですね。ライバルだとか、親とか、成績とか、快楽に反する要素は排除しておく。『お前が感じている快楽は幻想だ』とは絶対に言わない。そういうお客さんに対する距離感が大切になっている。」

 

植田基生(アニメーションプロデューサー:『宇宙の騎士テッカマンブレード』『新世紀エヴァンゲリオン』ほか)

「主人公を追い詰められない」「『わかりやすさ=親しみやすさ』という前提でやってきた(略)彼はハッピーに育ってきて、つねにまわりに友だちがいるリア充だった(笑)。だから人間の歪みを深く書こうとしても、無理があるんです。」

 

つまり、あかほり氏自身が育ちがよく、幸せな家庭の中で成長してきた素直な心の持ち主なので、その生き様が作品にも反映されているのだ。確かにあかほり作品のハーレム要素は安心できるし、逃避の対象として絶対的な安心感がある。だが、90年代後半からエヴァがブームになったように、「小難しいことを考えている僕/私」に陶酔したいというニーズが顕在化した。あかほりさとる的なライトなものは、「甘い」「浅い」、「ぬるい」と思われて衰退していった。本書の中でも、『ラブひな』『シスプリ』などの作品や、もしくは『月姫』『AIR』などのPCゲーム市場にも、「あかほり的なるもの」や「あかほりマインド(お客様第一主義)」は受け継がれているのではないかという指摘があった。だが、今まどマギが久しぶりにオリジナルアニメの中でエポックな作品となったように、やはり壮大な世界観で、小難しく語らうことのできる作品が世間に求められているように思う。『セイバーJ』アニメ化の際も、あかほり氏以外のスタッフによって、原作とは異なるシリアスで骨太なストーリー展開にしていこうという運びとなったとのことだった。子供の時は、きれいなものだけ見て生きていることができた。私自身、コロコロやボンボンなどを見てごくごく普通の人生を送ってきた。だが、やはり年を取るとエヴァのような作品に傾いていくことは避けられなかった。今、無邪気に「好きな作品は、あかほり作品です!」と言えなくなってしまった自分がいる(公言はできるが、常に喉の奥に引っかかるものがある)。

 

  • 『セイバーJ』や『ラムネ&40』の歌詞に見るセカイ系脳(死語)[追記部分]
あかほり作品の「浅さ」や「甘さ」、そして「心地よさ」は、アニメ作品の歌詞にも表れている。
 
■『セイバーJ』OP
「君を守るため この地に 君と出会うため生まれた」
「君を愛するために今 君を抱くため生まれた」
 
■『セイバーJ』ED
「淋しいとき せつないとき 一人で落ち込まないで 君のそばに僕必ずいる 感じて」
 
見事に「キミとボク」しかいないセカイ系だ。そして、ヒロインは無償の愛を主人公に傾けてくれる。まさに「外道」であるし、そもそも本当にマリオネットたちが「成熟した女性」になってしまったとしたら、小樽を好きでいる理由や根拠はどこにあるのだろうか(という議論が、関連本でもされていた)。利根川さんに「世間はお前らの母親ではないっ。おまえらクズの決心をいつまでも待ったりはせん!」と言われてもおかしくない。それくらいのぬるま湯に浸からされるのだから。『ラムネ&40炎』のOPに関しては、「この世は君のために 廻ってる!」「この世は君の後を ついて来る!」だ。利根川さんに(ry。絶対的にブレない自己中心性があるが、そこで「世の中そんなに甘くねーよ」というツッコミをしては身も蓋もない。逃避するには絶好の場所であるのは間違いないが、ある程度年を食うと、あまりに無害で無菌な空間は少々居心地が悪い。

 

  • ラノベ原作アニメの増加と消費サイクルの短縮化

当時『セイバーJ』の編集担当だった菅沼拓三は、あかほり氏の「罪」として、「アニメ化されて初めてヒット作」という意識を、読者だけでなく作り手側にも生み出してしまったのではないかと述べる。あかほり氏と上江洲誠(脚本家)との対談頁においても、最近は「ライトノベルはアニメにならないとヒット作とは言えない」風潮があるという指摘があった。その通りだと思う。今年のアニメ化作品を見ても、ラノベ原作の多いこと多いこと。ドラマや映画も小説、漫画原作が目立つが、アニメの「メディアミックス(別名:あかほりシステム)」展開ももはや「ラノベ=アニメ=ゲーム=コミック=グッズ=イベント」までひと通りこなすことはルーティーンとなっている。

 

しかも、かつては「原作どおりにやらねえぞ」が受け入れられていたが、今は「原作のラノベをアニメで完璧に再現する」ことが求められており、客の目もシビアになっていると両氏は感じているようだった。脚本家が原作をアレンジすることは、「悪ふざけ」「不謹慎」とみなされるらしいのだ。確かに、原作ファンはもはや答え合わせをするようにアニメを見ている。アニメ放映後にすぐさま原作とアニメとの相違点が比較され、様々な方向から検証をされる。作り手側も息が詰まりそうだが、視聴側もそういった見方は疲れてしまうのではないか。そのような考えから、上江洲は、今後「オリジナルアニメがわっと出てくる」と予想している。事実、オリジナルアニメの仕事依頼が増えていると言っているし、視聴者としても「来週どうなるかわからない」という当たり前の楽しみ方に回帰していくのではないかという読みだ。情報が溢れすぎて、視聴者の目も肥えてしまっている現状での打開策は、オリジナルなのだろうか。

 

そして、両氏が今のアニメ業界について語る場面があった。放送されるアニメの数が多すぎるため、1本の作品の中でのバラエティさが求められず、飽きるスピードも早くなっているというのだ。「泣ける作品」ならば、最後まで「泣ける作品」でなければならないし、「原作どおり」のものは、最後までそれを通さなければならないのだ。一つひとつの作品に、ラベルを付けて管理できることが望ましいというわけだ。また、アニメファンのライフスタイルも成立しつつある。「3か月ごとに40本ぐらいの新番組」が始まるわけで、1クールごとに「次期はこのアニメ!」とアニメ番組一覧表が作られ、視聴者はそこから取捨選択を行う。私の場合は、第一話をひと通り見て、順次切っていくというスタイルで視聴する。そのような視聴スタイルだと、基本的に作品の寿命は1クールだ。最近は、「まどマギ」や「けいおん」、「とある魔術の~」「シュタインズゲート」など、映画化によって寿命を延ばしているものも少なくない。「あの花」は未だに街おこしの役割を担っているようだが、今の短い消費サイクルで一つの作品を長年使い倒すには無理があるような気もしなくもない。

 

  • アンチがいること、オタクにdisられることは作家の幸せ?

あかほり氏は「営業マンが作家をやっているようなもの」(ブシロード社長:木谷高明)と言われるくらい、とにかく自身が前面に出る。脚本家というよりは、プロデューサー、ラジオパーソナリティ、広報などといったほうがしっくりくる場面もあると思う。消費者の目に触れることの多かったあかほり氏は、disられる機会も多かったようだ。だが、氏は「作り手とファンが同じ視点に立てるオタク業界ってのは、やっぱり貴重だと思う。」と語り、何となく消費されて悪口すら言ってもらえない一般向けの仕事よりも、アンチが付くオタク向けの仕事に懐かしさやありがたさを感じていた。ネットでの言われ方はキツいが、disられていた時代が懐かしい、とまで言うのだ。最近Twitterでもクリエイターがエゴサーチをして作品を酷評するファンに苦言を呈していたり、「クリエイターはTwitter2ch見るなよ」という消費者側の意見も散見される。アンチがいることの幸せは赤松健氏も語っていた。そもそも、話題にならなければアンチすらつかないのは確かにそうだが、あまりに多くの悪意ある攻撃を受けてしまえば、有名税と割り切れない部分もあるとは思う。

 

そして、もう一つのあかほり氏の特徴は、徹底した「お客様目線」だ。とにかく、客の声に真摯に耳を傾け、彼の中心には常にお客様が存在している。「自分の書きたいことではなく、読者が読みたいことを優先する」という意味では、赤松健氏や佐藤秀峰氏に考え方が似ているし、飛び抜けたサービス精神という意味では、ハックル先生にも共通するところがあるのではないかと思う。客を大切にするクリエイターに共通しているのは、合理的に物事を考え、儲けることを徹底的に考えていることなのではないかと感じた。あかほり氏の言葉で言えば、「売れた作品=良い作品」なのだ。この中の誰もが、試行錯誤しながら独自の方法で生き残りをかけて実験的な試みをしている(あかほり氏は「上がり」に近づいているし、かつての勢いはなくなっていると感じる)。

 

 

あかほり作品ファン(結局ファンなのだ)としては、このように1冊の本にまとめてくれたことを嬉しく思う。やはり私はこれからもあかほり作品ファンを恥ずかしげもなく公言していくと思うし、当時『セイバーJ』を見て涙したり心動かされた感覚は今でも覚えている(あかほり氏はアニメ化の際、ライトなものを望んでいたかもしれないが)。しかし、全てが全て深くて考えさせられる作品ばかりになってしまったら、視聴するだけでライフが削られていくばかりだ。『日常』『みなみけ』『じょしらく』のような作品だって、やはり愛されているわけだ。浅くてもいいじゃない、だって人間だもの。

 

オトナアニメCOLLECTION あかほりさとる全書~“外道

オトナアニメCOLLECTION あかほりさとる全書~“外道"が歩んだメディアミックスの25年~