読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

裏うぉっちング!!!

オタク、サブカルなどの理屈っぽい話はこちらで。

【書評】『言葉の力』(猪瀬直樹著)を読んだけど、ペンを武器にすると人生捗ると思う。

書評

こんなことを言うのは恥ずかしいが、私はまともに映画を見ることができない。正確に言うと、できる映画と、できない映画がある。一つの作品を1時間~2時間近くじっと見続けることは苦痛でしかない。何が悲しくて、他人が好き勝手作った創作話に付き合わなければならないのか。

だが、例外はある。シリーズもの(特にアニメ)は嬉々として見ることができるのだ。ドラゴンボールのアニメなどはVHSで十何回も見たし、コナンもポケモンも、小さい頃は毎年映画館で見ていた。つまり、事前に作品情報の蓄積があるものについては、アニメや漫画の延長線上に映画があるので、単に出力される媒体が異なるだけ、というわけだ。なので、ジブリは見れない。まずキャラクターの名前や関係性が覚えられないし、ストーリーも把握できない。とにかくわからないことだらけで物語が進んで、結局何もわからないまま静かに眠りに落ちていくという悪循環に陥る。

 

『言葉の力』の中で、「本イコール他者」であると書かれていた。「1冊の本を読むことは、2~3時間かけて、他者が述べていることを我慢して聞くことと同じである。他者がわからない人とコミュニケーションはとれないし、本を読まないまま大人になると、他者を抱え込むことができず、自分のことしかわからない人間になってしまう。」(p40)

 

これまた恥ずかしい話だが、私は大学に入るまで授業以外で活字を読んだことはほぼ皆無だった。映画と同じで、なぜ人の創作話や身の上話をじっと長い間読まないといけないのだと思ってしまうからだ。これまた映画の場合と全く同じなのだが、いわゆる「シリーズもの」は唯一例外的に読むことができたのだ。宗田理の「ぼくらの~」シリーズと、シャーロック・ホームズや怪盗紳士ルパンなどのミステリーものだ。「ぼくらの~」は、読書感想文をどうしても書かなければならなくなった時に、仕方なく読んだ本だったが、気付けばシリーズのほとんどを読破していた。実はこの本は同じキャラクターたちが活躍するシリーズなので、いわゆるキャラクター小説であり、ラノベのようなものだ。シャーロック・ホームズや怪盗紳士ルパンのシリーズだって、いわばキャラクター小説である。ある意味、コナンやポケモンと同じように消費していたのだ。ちなみに一言付け加えておくと、私はいわゆる「ラノベ」はほぼ読まない。(奈須きのこは別だ。)

 

話を戻そう。本書の引用部分に乗っかるとすると、これまで私は映画も本も満足に見ることができずに、「他者を抱え込むことができ」なかったのだ。(映画に関しては、今でもなかなか真面目に見ることができないことがある。)読む必要性を感じなかったし、学校では聞きたくもない教師の話を強制的に聞かされるわけで、文字の形でも人の話を聞かされることに耐えられなかった。

 

だが、今考えれば、そんな多感な時期にこそ、本(言葉)が必要だったのだと思う。本書では、「言葉の力は、引用、検索する力」ということや、「言葉技術で『生きる力』を回復せよ」という大それたことが書いてあるが、私が思うのは、もっと些細で卑近な意味だ。思春期ならではの悩みや自意識に苛まれている時に、自分の中のもやもやを説明できる言葉を私は持ちあわせていなかった。伝えたいのに伝えられない苦しさと、そもそもその苦しさや悩みの正体が何なのかすらわからない不安は相当のものだった。

 

そこから大学に入り、本の虫になったことで、以前よりは「言葉」が少しは豊富になった。まだまだ「ボキャ貧」であるし、博識にはほど遠い不勉強さではあるが、「ペンは剣よりも強し」という言葉の意味は、大人になるほど身にしみる。大人の世界では、暴力に訴えても不利な状況にしかならない。法律は、法律を知っているもののためにあるのだ(法律を知らない者にとって、法律は彼を守る何物でもない)。物理的な暴力に成功しても、結果的に社会的な制裁が与えられる。様々な場面で、言葉をうまく操れることの「有利さ」に遭遇することがある。大人になると、自分の自意識を収めるための「言葉」だけでなく、他人を説得し、動かすための「言葉」も必要になってくる。いわゆる「口がうまい」という意味での「上手さ」とは異なるが、「言葉」がうまく使えるに越したことはない。

 

「若者の活字離れ」や「若者の新聞離れ」と言ったことが叫ばれているが、私も若いうちに沢山本を読んでおくに越したことはないと思う。猪瀬氏も、20代のうちから本を読んで脳の筋力を鍛えるべきだと言っている。また、ただ徒に沢山読めばいいだけではなくて、「生きるために考えて必死に読まざるを得ない気持ちで読」むことが大事だと言っていた。確かに、読んだものの大部分は頭の中から抜け落ちていく。心の中に残ったワンフレーズだけが、記憶の本棚に少しずつ整理されていくのだ(ホームズのように)。1日1冊必ず読むとか、1週間でこれだけ読んだとか言う人がいるが、だからどうしたと言いたい。読んだ数を誰かと競っているのなら話は別だが、特に若いうちは興味のある本を集中して読むといいと思う(と、過去の自分に言ってあげたい)。

 

また、本書で「最近の作家のものは読まなくていい。(略)いまの本は、いまの空気を読者の君たちも共有しているから、なんとなくわかってしまう。生まれる前の本は空気を共有していないから、頭のなかで時代を構成しなければ理解できない。そういう読書が必要」とあった。私の場合、ホームズのシリーズがまさにそれに当たって、当時のイギリス社会がどのようなものだったのか、まず調べなければ話自体を理解できなかったのだ。どのような社会で、どのような職業があり、(イギリス人が)どのような家に住み、どのような衣服を着て、どのようなものを食べていたのか。何から何まで今の日本の常識とは異なるので、高校生の私は頑張ってイギリス社会について調べていた(と記憶している)。子供は興味のあるものについて、驚くほど頑張って調べあげる(ポケモンの名前を全て覚えるなど造作もないことだろう)。

 

いろいろ述べてきたが、詰まるところ、多感な若者が手っ取り早く自分の自意識を収めるために「言葉」は有効なのだと思う。もちろん、スポーツでも芸術でも、音楽でも、表現や自己主張の場は多様にある。その中で、比較的マスターしやすく、ルールや技術を覚えて習得すれば誰でもある程度のコントロールが効くものが、「言葉」なのだと思う(綺麗な文体でなくても、響く言葉はある)。本書の主題をかなり卑近かつ矮小化してしまったが、文字通り「言葉の力」で文学の重みを伝えたり、文学自体をかっこいいとすら思わせてしまうあたりに、猪瀬氏の「言葉」の深みや力強さを感じた。私自身、全く言語技術が身についていない状態で10代を過ごしたため、かなり息苦しい思いをしてきた。それが大学入学を機に「言葉」の魔力に惹きつけられ、結果的にそちらに耽溺するようになってしまった。だが、今考えると、本を読むことで身についたのは、「借り物の知識」止まりだった。それが「言葉」になったのは、「対話」や「議論」を重ねたからだ。10代のうちは、「会話」と「雑談」だけして、しかも本も読まなかった。かなりの人に迷惑をかけてきたが、邪気眼を開くようなことにならなくて、本当によかったと思う。